『風、薫る』モデル大関和・鈴木 雅の家系図と家族構成

2026年後期の朝ドラ『風、薫る』のモデルとなった大関 和と鈴木 雅の家系図と家族構成をご紹介いたします。
大関和&鈴木雅の家系図
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大関和の家族構成
◆大関和の両親
大関和(ちか)は、黒羽藩(現在の栃木県)で城代家老を務める父・大関弾右衛門と母・哲との間4人兄弟の次女として生まれました。
藩主である大関増裕は縁戚にあたり、彼は子ども好きだっため和らを城に呼び、菓子を振る舞ったりしました。
そのとき和は洋書を読む機会があり外国語に興味を持ち、増裕は和に英語を教える約束をしますが、彼は狩猟中に猟銃暴発事故で亡くなったため、その望みは叶うことはありませんでした。
家老の職を失った父・弾右衛門は、親戚を頼って家族をつれて上京しました。
長男の復彦は慣れない生活が嫌になって出奔し、長女の八千代は嫁いでいき、和と弟の衛、妹の釛(こく)は書道と算数の塾に通わされました。
◆結婚
18歳になった和は故郷の士族・渡辺福之進と結婚することになり、この縁談をまとめると間もなく父の弾右衛門は他界しました。
しばらくして和は男の子を出産し、「六郎」と名付けられました。
実は福之進には数人の妾がおり、すでに5人の子どもがいたため、この名をつけたのでした。
和は怒って東京の母に便りを出しますが、母から弾右衛門の名を汚さないで欲しいと諭され、渋々 我慢することにしました。
しかし、二人目の子どもである娘の心(しん)を身ごもっているときに、とうとう限界がきて六郎を連れて実家に戻ったのでした。
母の哲も孫の可愛さに、和を追い返すことはできず一緒に暮らしはじめました。
◆求婚
和は東京看護婦会で鈴木雅の片腕として働いているころに、社会運動家・ 木下尚江に求婚されます。
しかし雅は反対し、和も尚江の気持ちは嬉しかったものの、自分より10歳以上年下の夫を持つことに迷いがありました。
尚江と親好のあった実業家・相馬愛蔵(現・中村屋の創業者)は、彼が廃娼運動を行っているにもかかわらず遊郭通いを行い、娼妓を見受けしたことなど女性関係が気に入らず、和に忠告しました。
こんなこともあり、和が尚江と再婚することはありませんでした。
◆心の他界
母と同じ道を進もうと看護学校に通っていた娘の心でしたが、20歳のときに結核と診断されわずか4か月でこの世を去りました。
和はなかなか心が亡くなったことを受け入れいれることができませんでした。
◆孫の誕生
一方、和のもう一人の子どもである六郎は、東京看護婦会の優秀な看護婦・澤本操と結婚しました。
六郎は医術開業試験に何度も落ち、27歳になったいまでも職に就けてはいませんが、操はそんな六郎を受け入れました。
二人は結婚から5年目に長男・一郎を授かりましたが、六郎は子どもの誕生が重圧になったのが、妻子を置いてジャワ島に旅立ってしまいました。
東南アジアに聖書を販売するための仕事だったようです。
そして翌年には、ジャワ島でマラリアに感染してしまい帰らぬ人となったのです。
そして後を追うように、母・哲も息を引きとりました。
相次ぐ身内の死に打ちひしがれる和。
和はこれまで忙しく、子どもに構っていなかった分、孫の一郎を溺愛して仕事場にも連れていくようになりました。
◆兄との再会
明治40年頃、和は長い間 行方がわからなかった一つ下の弟・復彦と再会しました。
東京看護学校が行う貧民救済活動で、嫁の操が偶然にも復彦を発見したのです。
長屋で暮らしていた復彦は、すでに末期の結核で病院にも入院するも、すぐに亡くなってしまいました。
遺った復彦の子供・増博は、栃木に嫁いだ妹・釛(こく)が引き取りました。
鈴木雅の家族構成
◆鈴木雅の夫と子供
鈴木雅もまた大関和と同じくシングルマザーでした。
夫は維新政府軍と旧幕府派との間で行われた内戦である戊辰戦争で亡くなり、戦争未亡人となった雅は生活のため看護学校に入り看護婦となりました。
雅にはみつと良一という二人の子どもがいます。
六郎と4つ下の良一は、本の貸し借りをするなど交流がありました。
成績優秀な良一でしたが、ナイーブな性格で胃をわるくして大学を中退し、自宅で東京看護婦会の事務まど雅の仕事を手伝いました。
姉のみつは活発な性格で、できたばかりの女子美術大学に進学しました。
最後に
今回は、連続テレビ小説『風、薫る』のモデルとなった大関和と鈴木雅の家族に関してまとめてみました。
看護婦としての道を切り拓き、明治時代には珍しく職業婦人として家族を支えた和と雅。
二人のパイオニアの人生がどう交錯し、どのように影響し合ったのか…
和と雅という二人の主人公のバディ物語をぜひドラマの方でも楽しみたいと思います。
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