笠置シヅ子の家系図『ブギウギ』モデルの実話ネタバレ

朝ドラ

2023年度後期の朝ドラ『ブギウギ』のモデルは笠置シヅ子さんです。60歳以上ならば「ブギの女王」として知っている方も多いとは思いますが、私たち子どもの世代は正直知っている方も少ないのではないでしょうか。そこで今回は、戦後の歌姫・笠置シヅ子の謎めいた生涯を家系図を交えながらご紹介いたします。

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笠置シヅ子の家系図

笠置シヅ子の家系図

笠置シヅ子は大阪弁のイメージが強いですが、実は四国の香川県の生まれです。

この事実を、香川の人はよく知っているのですが、多くの人は彼女が大阪生まれだと思っています。

シヅ子本人でさえ、生後まもなく養子に出されたことを知ったのは17歳の頃だと言いますから無理もありません。

またシヅ子の恋人だった吉本穎右(えいすけ)の母は、吉本興行の創業者・吉本せいです。

吉本せいは朝ドラ『わろんてんか』のモデルにもなりましたね。

シヅ子と穎右は、正式に結婚はできませんでしたが、二人の間にはエイ子と名付けた女児が誕生し、穎右亡きあとはシヅ子が女手一つで育てました。

では、次の章からシヅ子の詳しい生い立ちを見ていきましょう。

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笠置シヅ子の生い立ち~晩年まで

出生の秘密

大正3年に香川県の東かがわ市に生まれた笠置シヅ子。

父親は、実家が製糖会社を営む郵便局員の三谷陳平で、母親は三谷家に和裁を習いながら家事見習いで同居していた谷口鳴尾です。

鳴尾は18~19歳のころにシヅ子を身ごもりますが、三谷家に結婚を反対されたために実家に戻りました。

そのとき乳の出が悪かった鳴尾は、大阪から出産のため帰省していた亀井うめに もらい乳をお願いしました。

それが縁でシヅ子は、亀井家に養子に迎えられることになり大阪に行くことになったのです。

この出生の事実はシヅ子には知らされず、彼女は17歳の頃に法事で香川を訪れた際に知ることになります。

迷った挙句、シヅ子はすぐに鳴尾を訪ねますが、鳴尾は涙を流すこともなく、ただただきちんとシヅ子の前に座っていただけだったそうです。

シヅ子はそんな鳴尾を見て、親子と名乗り出ることもできずに帰ったそうです。

17歳になって自分が養子だと知ったことも衝撃だったでしょうが、産みの母から知らないフリをされたシヅ子の気持ちを思うと切ないですね。

歌の才能

芸事の好きな両親の影響で、歌や踊りに親しんでいたシヅ子は宝塚歌劇団を受験しますが、身長が足らずに不合格となりました。

歌手への道を諦めきれないシヅ子は、松竹楽劇部の養成所に入り三笠静子として初舞台を踏みました。

そこで出会ったのが、同じく松竹楽劇部一期生だった水の江瀧子でした。

水の江瀧子と言えば、戦前に「男装の麗人」としてスターとなり、戦後は「紅白歌合戦」の司会をとして活躍したり、映画プロデューサーとして石原裕次郎を見出した人物として知られていますね。

その水の江瀧子は、松竹楽劇の女優たちと「桃色争議」という待遇改善を求めるデモを起こしました。

この騒動は、松竹が要求をのむ形で決着しましたが、水の江瀧子は逮捕され、参加した女優は松竹楽劇を辞めさせられることとなりました。

そんななか松竹楽劇部に残されたシヅ子は、若手のなかで頭角を表していきました。

その後、上京したシヅ子は20歳のとき、服部良一作曲の「恋のステップ」でコロムビアからレコードデビュー。

シヅ子の小さい体から繰り出されるパンチのある声とリズム感のある踊りは、たちまち評判となっていき、日本のジャズ歌手第1号となりました。

その頃、澄宮崇仁親王が三笠宮家を創立したことから、恐れ多いとして芸名を三笠静子から笠置シヅ子に改名しました。

潔癖症

シヅ子は、若い頃から周りにあるものが汚いと感じてしまう潔癖症に悩まされていました。

それは、幼少期に体験した洪水の記憶がもたらしたものでした。

いつも手を消毒しなければ気に済まず、着ている服にはアルコールを吹きかけ、つり革を持つことができずに電車にも乗れませんでした。

そんな内面の不安を抱えながらも、シヅ子は必死でジャズを歌い続けていました。

運命の出会い

笠置シヅ子が初めて吉本穎右(えいすけ)に出会ったのは29歳のとき。

穎右は吉本興行創業者・吉本せいの息子で、早稲田大学に通う20歳の学生でした。

かねてからシヅ子のファンだった穎右は、関係者と共にシヅ子の楽屋を訪れてシヅ子に名刺を渡しました。

ちなみに、このときの名刺をシヅ子は亡くなるまで持ち歩いていたそうです。

シヅ子は恋多き女性ではなかったようですが面食いで、穎右の知的でハンサムな佇まいに一目ぼれ。

シヅ子は穎右に「荷物が多いから一緒に運んで欲しい」と頼み、一緒に列車に乗り込み言葉を交わしたそうです。

それから穎右もシヅ子を慕うようになり、二人は交際を開始しますが、後継者として一人息子の穎右を溺愛する吉本せいは二人の結婚に猛反対

一方で、シヅ子が穎右の子を身ごもったことから、せいは少しづつ息子とシヅ子の関係を認めていきました。

衣装でお腹のふくらみを隠しながら、日劇の舞台に立つシヅ子。

高いハイヒールはいて踊る姿に服部は、ハラハラしながら見守っていたそうです。

そんなシヅ子のもとに大阪から思いもよらない知らせが届きます。

穎右が子どもの誕生の直前に、結核のため24歳の若さでこの世を去ったのです。

穎右は娘だったら「エイ子」と名付けてくれと伝え、三万円の入った通帳をシヅ子に遺したそうです。

シングルマザーとして

穎右亡きあと、一人娘のエイ子を出産したシヅ子のもとには、吉本家から「子どもを引き取りたい」という申し出もありました。

しかしシヅ子は、自分のように貰われ子にさせたくないとの理由で、一人で育てる決心をしました。

産後間もなく、舞台に復帰したシヅ子は、幕間のわずかな時間にエイ子をあやしたりお乳をあげたり大忙しだったそうです。

シヅ子は、働きながら子どもを育てるワーキングマザーの走りだったのです。

一方で、芸能人でありながら娘を一切甘やかすことなかった母のシズ子。

学校へも自家用車でなく電車で通わせ、子どもが欲しがるものがあっても、すぐには買い与えることはしませんでした。

娘のエイ子さんは晩年、シヅ子さんについて

「娘としてではなく、人間として、私には一生超えられない人です」

と語っています。

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ブギの女王の誕生

時は戦後復興まっただなか。

シヅ子は戦争中は満足に歌うこともできず不遇の時代を過ごしていましたが、ある歌の出会いで一気に大スターとなります。

その歌は、戦後を代表する流行歌となる「東京ブギウギ」。

シヅ子の師匠であり、良き理解者である服部が、32歳で産後カムバックするシヅ子のために作曲した曲です。

服部は復帰する決意をしたシヅ子に「先生たのんまっせ。」と言われ、その苦境を吹っ飛ばすような華やかな曲を用意したそうです。

ブルースの明るい部分(ブギ)を取り入れたメロディーとシヅ子の魂の叫びのような歌声は、娯楽に飢えた人々を熱狂させ、明日へと生きる勇気を与えました。

それから「大阪ブギウギ」「ジャングルブギー」「買い物ブギ」など関連の曲もヒットさせたシヅ子は、いつしか「ブギの女王」と呼ばれるようになりました。

焼け跡に残った日本劇場では、笠置シヅ子見たさに多くのファンが殺到。

シングルマザーということもあり、シヅ子は戦後の混乱のなか、体を売って生計を立てている女性たちに特に支持されていました。

シヅ子も彼女たちに自分に重ね合わせ、忙しい合間をぬって女性の自立のための支援を行い、心の交流をはかりました。

現在、シヅ子が歌う「東京ブギウギ」はYouTubeで視聴できます。

いま見ても人を惹きつけるパフォーマンスは鳥肌もの。

そしてなんといっても、長いまつ毛をつけて大きな口で歌い、舞台をところ狭しも動きまわる姿は、とてもチャーミングですね。

最近では、ミラクルヒカルさんがモノマネをしていましたが、ソックリで驚きました。

またシヅ子は、アメリカのロサンゼルス公演に知り合ったジャニー喜多川と戦後しばらく交流があったそうです。

ジャニーズのアイドルが「買い物ブギ―」「たよりにしてまっせ」などをカバーしているのも、このためです。

美空ひばりとの関係

笠置シヅ子は、美空ひばりがデビュー仕立てのころに、その才能を嫉妬して「自分の曲を歌うな」とイジメたという話がありますが、それは少し違います。

このエピソードは、美空ひばりの母親が書かせた自伝で一方的に発表されたものです。

シヅ子としては、子どもであろうとプロ歌手であれば礼儀を重んじ、妥協を許さないという考え方がありました。

そのため、ルールを守らず配慮がたらないひばりの母やプロデューサーに自分の大切な歌を渡したくなかったのです。

一方的に、美空ひばり親子から非難されたシヅ子ですが、言い返しても仕方のない相手として一切このことについては語らなかったそうです。

また、美空ひばりプロダクションの副社長が裏街道の人物だったことも、シヅ子は嫌だったのかもしれません。

シヅ子は、金や権力にモノをいわして支配しようとする極道や政治家を嫌悪していました。

新潟で偶然にも田中角栄に会ったときに、握手を求められましたが、そっぽを向いて無視したという話も残されています。

歌手廃業

ブギが下火となった1957年(昭和32年)44歳になったシヅ子は歌手を廃業して女優業に専念することを発表しました。

その理由についてシヅ子は、

「自分が最も輝いた時代をそのままに残したい。それを自分の手で汚すことはできない。」

と述べています。

シヅ子は引退後から、公私を問わず一切、鼻歌にいたるまで歌を歌わなかったそうです。

その後、「スター歌手・笠置シヅ子のように高いギャラはいりません。これからは新人女優のギャラで使って下さい。」と関係者に頭を下げて仕事を獲得しました。

過去の栄光にすがることなく、前向きで潔いシヅ子らしいエピソードです。

晩年

それからは、ラジオドラマ「雨だれ母さん」のレギュラー出演を皮切りに、脇役として映画やドラマに多数出演し、お母さん女優としての地位を確立。

また『家族そろって歌合戦』の審査員なども務めました。

シヅ子の歌手時代を知らない世代では、カネヨ石鹸の台所用クレンザー「カネヨン」のCMのおばさんとして親しまれました。


女優としても活躍したシヅ子ですが、69歳の頃に卵巣がんが見つかり手術をしますが、70歳に再発。

そして1985年、卵巣がんのためシヅ子は71歳でこの世を去りました。

入院中は服部良一の伝記ドラマ『昭和ラプソディ』を楽しみに視聴しており、自分の役を演じている研ナオコを見て「日劇時代は楽しかったね」と最後の言葉を遺したそうです。

最後に

デビュー当時の美空ひばりがその歌声を真似し、女優の高峰秀子やジャニー喜多川さんもファンだったと言う歌姫・笠置シヅ子。

その野性味ある歌声とキレキレのダンスで占領下の日本を元気にしたように、朝ドラ『ブギウギ』でも私たちに生きる活力を与えてくれることでしょう。

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