岡本太郎の家系図!母は岡本かの子で従兄弟は俳優の池部良

家系図

戦後日本が生んだ最大の前衛芸術家である岡本太郎の家系図から、両親や親せきについてご紹介したいと思います。

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岡本太郎の家系図と両親

岡本太郎といえば、燃え上がるような生命の躍動感を感じさせる作品と、「これこそが芸術だ!」と思わせるような奇想天外な言動が魅力ですよね。

そんな太郎を生み育てた両親は、どのような人物だったのでしょうか。

まずは、家系図から見てみましょう。

岡本太郎の家系図

母は作家の岡本かの子

芸術家である岡本太郎に最も影響を与えた女性が、明治から昭和を奔放に生きた女流作家・岡本かの子です。

かの子は自分について、「私は3つの瘤(こぶ)を持つラクダである」と話すように、短歌の歌人、仏教研究者、小説家という3つの顔を持っていました。

一方、彼女の私生活は謎めいており、さらにスキャンダルに満ちていました。

かの子は、夫の一平をどうしても愛することができず、白塗りの厚化粧を施し、夫と子どもがいながら、若い愛人を家に同居させることもありました。

太郎は「母親を持った記憶がなく、可愛がったことはあるかもしれないが、面倒を見てもらったこともない」と語っています。

父は漫画家の岡本一平

そんな奔放な妻と競うように個性的だったのは、父で漫画家の岡本一平

一平は、かの子と結婚した当初は、貧乏絵描きでしたが、新聞小説の挿絵が評価され朝日新聞の社員に迎えられます。

しかし、かの子はそんな一平の活躍を喜ぶどころか、平凡な人生を歩む彼に不満を感じていました。

一方、一平もそんなかの子に嫌気がさし、収入が増えたことをいいことに、芸者や酒に溺れていきました。

そんななか、かの子が敬愛する兄が突然亡くなってしまいます。

悲しみに暮れ、精神を病んでしまうかの子を見て、さすがに気が咎めた一平は、かの子に歌集を出すことを提案します。

そして、かの子は歌集作りに没頭するあまり、息子の太郎を柱に縛り付けたりもしたそうです。

その後、夫婦生活は安定を取り戻し、長女・豊子が誕生しますが、平穏な日々はほんの束の間。

再び一平が放蕩を始め、家庭を顧みない生活を始めます。

一平は、収入のほとんどを呑み代に使うため、家計は火の車でした。

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奇妙な夫婦生活

かの子は、家庭での絶望を埋めるかのように、彼女を崇拝していた早稲田の学生である堀切茂雄と恋に落ちます。

そんな若き文学青年との恋を、かの子は妹のきんにだけ話をしていましたが、ある日かの子は、下宿で茂雄ときんが一緒にいるところを発見。

激情したかの子は、正気を失い、精神病院に入院することになったのです。

そんな妻を心配した一平は、「そんなに好きなら、手元に置いて一緒に暮らせばいい。」とかの子と茂雄の同居を公認

そこから、夫、妻、愛人との奇妙な生活が始まり、かの子はどちらの子か分からない次男・健二郎を出産します。

しかし、健二郎は、生まれてわずか6か月でこの世を去り、かの子と茂雄の恋も終わりました。

夫婦は仏教の世界へ

茂雄を失い、孤独のなかに身を置くかの子、複雑な感情に苦しむ一平、そして幼くして地獄のような家庭を知った太郎は、再び家族3人での生活を始めます。

その後、心身共に疲れきっていた一平とかの子は、お互いを憐れんだ挙句、夫婦そろって仏教に救いを求めます。

倫理観と自分の情熱との間で苦しんできたかの子は、仏教にのめり込み、本まで出版しました。

それから心機一転、一家は引っ越しをして、平穏な生活を送り始めます。

生きる喜びを見つけたかの子に安心した一平は、仕事に専念。

日本の著名な漫画家の一人となり、時代の寵児としてもてはやされました。

その頃 岡本家は、慶大生の恒松安夫を書生として預かり、かの子の愛人で外科医の新田亀三も同居をはじめます。

一家で欧州旅行へ

昭和4年、一平が特派員として軍縮会議に行くことになり、かの子は妻として欧州に同行することになりました。

さらに、息子の太郎、書生の恒松安夫、かの子の愛人・新田亀三も一緒でした。

パリの空気を存分に満喫した一平とかの子たちは、もっと芸術を勉強したいという太郎を残して帰国します。

そしてかの子は、ナルシズムに支えられた太郎への愛を描いた『母子叙情』など数々の小説を発表。

しかし、小説を書き始めて3年後ー。

かの子は脳溢血のため49歳でこの世を去りました。

パリで知らせを聞いた太郎は、泣きながら街をかけずり回ったそうです。

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岡本太郎の妻のような存在は岡本敏子さん

岡本太郎には正式な妻はいませんが、養女の岡本敏子さんが人生のパートナーでした。

太郎が主催した「夜の会」で出会い、恋に落ちた太郎と敏子さん。

しかし、太郎は夫婦という形に苦しんだ両親のこともあり、敏子さんとは婚姻関係を結ばず、遺産を相続できるように養女としました。

遺産相続では、子供がいない場合の妻の取り分は1/2となり、残りは親族のものとなります。

岡本太郎は作品を売らなかったので、自分の作品を全て敏子さんに残して管理してもらうため、「妻」ではなく遺産を100%相続できる「養女」にしました。

敏子さんは妻として秘書として、芸術家の夫を生涯支え続け、太郎が亡くなったあとも、インタビューや著書によって彼の再評価をはたらきかけました。

最後に

世間が求める父や母の「型」にはまることなく、太郎を一人の人間として扱ってきた かの子と一平。

その後、太郎はパートナーとして支えてくれた敏子さんのおかげで、日本を代表する芸術家となりました。

今回、彼の生い立ちを知ることで、その恐ろしいまでの生命力あふれる作品を、少し違った角度から見ることができました。

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