小泉セツ・八雲【家系図】子供・子孫は?家族構成を家系図付きで解説

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2025年後期の朝ドラ『ばけばけ』は、日本を愛した小説家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の妻・セツをモデルにした作品です。士族に生まれたセツは、明治期になぜ困難を極めた国際結婚をし、ハーンを生涯支えたのか。今回は、小泉セツの家系図からハーンとの出会いや家族構成などを解説します。

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小泉セツ・八雲の家系図

家系図

※無断転載ご遠慮ください。

日本に帰化し、日本人として54年の生涯を閉じたハーンは、ギリシャ西側の海に浮かぶ自然豊かなレフカダ島で生まれ、アイルランドで育ちました。

一方、 セツは、島根県松江の士族・小泉家の娘に生まれ、子に恵まれなかった親類・稲垣家の養女となりました。

しかし、明治の大変革によって生家・養家共に没落し、セツは家族を支えるため11歳で学校を辞めて働き始めました。

そして、縁あってハーンの住み込み女中として雇われることとなり、二人は出会い、結婚しました。

その後、13年9ヶ月共の過ごしたハーンとセツは、三男一女四人の子どもに恵まれ、子孫も存在します。

大まかな家族構成がわかったところで、次に家族一人一人を詳しく見ていきましょう。

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小泉八雲・セツの両親・兄弟

ハーンの両親・兄弟

アイルランド出身の軍医・チャールズとギリシャ出身の母の元に誕生したハーンでしたが、幼い頃に両親は離婚。

母はハーンを引き取り再婚しましたが精神を病み、彼は父方の裕福な大叔母に育てられ、フランスにも留学するなど良い教育を受け素晴らしい学生生活をおくりました。

一方で16歳の時に、イギリスの寄宿学校で「ジャイアント・ストライド」というスポーツゲームで飛んできたロープの結び目が左目に当たり、失明しました。

ハーンは、三人兄弟の次男で、長男ロバートは生後数か月で亡くなり、弟は後に訪米し農業経営者となりました。

大学を卒業したハーンでしたが、大叔母の破産により生活は困窮。

その後、アメリカに渡ったハーンは、翻訳の仕事をしながらシンシナティとニューオリンズで記者として働きました。

シンシナシティでは下宿で働いていた四歳年下の混血女性・マティと結婚しますが、一年も絶たずして離婚しています。

人種差別が当たり前の時代にあって、野蛮とされていたアジア人を愛したハーンは、英国人としてその当時は極めて少数派の人でした。

セツの両親と養父母

セツは、松江藩家臣で由緒ある小泉家の次女としてこの世に生を受けました。

父・小泉弥右衛門湊は小柄ながらやる気に満ち溢れた男で、母・チエは名家の一人娘でとても美人でした。

セツが生まれる前に、今度生まれる小泉家の赤ちゃんは、遠縁の稲垣家がもらい受けると決まっていました。

セツは誕生から七日後に乳母と共に、並の家柄だった稲垣家の屋敷に運ばれました。

養父・稲垣金十郎は気の良い善良な男で、養母・トミは無学だったものの働き者で実直な女性でした。

セツはそんな養父母のもと、一家をあげて可愛がられ「お嬢(おじょ)」と呼ばれ、大切に育てられました。

しかし、明治の大変革により稲垣家は次第に困窮していきます。

学業が優秀だったセツでしたが、学校に通えなくなり、生家である小泉家で織子として働くことになりました。

そしてセツ18歳のとき、同じく困窮していた士族の息子・前田為二が稲垣家の婿養子となったことで、最初の結婚をしました。

そんななか小泉家の織会社も倒産。

婿養子の為二は、借金を背負い、どうにもならない家から逃げるように出奔し、結局セツは離婚を決意しました。

セツは小泉家に復籍し、家族を支えるため身を粉にして働きました。

セツの兄妹

セツは六人兄弟ですが、長男と次男は生れてすぐに亡くなりました。

三男・藤十郎は、ろくに働きもせず、セツの仕送りに頼ったあげく、先祖代々の墓を売り飛ばしたことで、後にハーンから叱責された人物です。

それから十六年後、空き家で一人寂しく亡くなっているのが見つかりました。

姉であるスエは、松江の士族に養女になったあと、母・チエと大阪に渡りましたが、セツと絶交していたこともあり、消息が分かっていません。

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小泉八雲・セツの子供と子孫

松江で教師をしていたハーンが勤めていた中学の教頭だった西田千太郎は、独り身のハーンに士族の娘を妻として紹介したいと考えていました。

そして知り合いの紹介で、セツがやって来ました。

最初、ハーンはセツを見たときあまりにも足が太く、がっしりとした身体だったため士族のお嬢様ではないと疑っていました。

当時の機織りは重労働だったため、セツは労働者の身体になっていたのです。

また、セツは当初「住み込み女中」だと思われており、「洋妾」と陰口を叩かれることもあったそうです。

西洋人の妾は、普通の妾以上に蔑まれる存在だったので、セツは並々ならぬ決意でハーンの家に向かったと言います。

しかし、ハーンと共に生活するようになったセツは、彼が生徒や同僚教師から尊敬されていたことや、日本を愛し、日本の習慣に従おうとする姿を見て、信頼するようになっていきました。

その後、西田が媒酌人となり二人はめでたく結婚しました。ハーン41歳、セツ23歳のときでした。

八雲とセツの子供

長男:一雄

ハーンとセツの最初の子どもとして1893年に最初に誕生した一雄

「一雄(かずお)」は、ハーンの「レフカダ島の」を意味するミドルネーム「ラフカディオ」から付けられました。

ハーンとは10歳まで過ごし、直接勉強を教わっており、父との日々を2冊の本にまとめています。

早稲田大学を卒業後は、事務職やホテルマンなど様々な職につき、喜久恵という女性と結婚し男の子を一人もうけました。

晩年はハーンと同じく教師や物書きとして働き、七十一歳でこの世を去りました。

次男:巌

兄妹のなかで一番目が大きく、父・ハーンに似ていた次男の

英語も積極的に学び、活発な性格で学生時代はスキー・野球・水泳・登山などを愛したスポーツマンでした。

ユーモアに富み、長身で美男子だったことから女性かの人気もありました。

その後、八戸の名家出身の翠と大恋愛の末に結婚しますが、妻・翠は下の子ども二人(明男・京子)を連れて実家に戻ってしまいました。

さらに、長女・八重子も母を追って八戸に行ってしまったことで、巌は孤独に打ちひしがれました。

そして三十七歳でガンが見つかり、四十歳で亡くなりました。

三男:清

長男・一雄が圧倒的な「父っ子」だったのに対し、三男・は「母っ子」で幼い頃から絵を描くのが好きな子どもでした。

英語教師だった会津八一は、清の絵の才能を見出し、彼に東京藝術大学進学を勧め、清は入学しました。

清は在学中にモデルのシズと恋に落ち、セツと一雄の反対を押し切って結婚しました。

その後 二人の仲は修復し、セツが動脈硬化で倒れると、一日に二度も彼女を見舞いました。

1962年には、愛妻・セツが急逝。

清は、冷たくなったセツ体を抱き、三時間も泣き続けたそうです。

その三か月後、六十一歳になった清は自ら命を絶ちました。

長女:寿々子

ハーンが亡くなる一年前に誕生した寿々子は、三歳の頃に脳髄炎を患ったため、生涯セツは娘を手元に置いていました。

セツが亡くなった後、寿々子は一雄に引き取られ、四十一歳で亡くなるまで面倒を見たそうです。

八雲とセツの孫と子孫

孫:時(タイム)

セツは長男・一雄と喜久恵の息子で、孫の(タイム)をとても可愛がりました。

紅茶とお菓子、おもちゃを用意して、孫がくるのを楽しみに待っていたそうです。

ちなみに、時の息子・さんは、民俗学者となり現在は「小泉八雲記念館」の館長を務めています。

玄孫:守谷天由子

巌の娘を祖母に持つセツの玄孫である守谷天由子さんは、現在 ハーンの故郷であるアイルランドに在住しています。

ハーンの血なのか、異文化に触れることが大好きな天由子さんは、単独世界一周旅行に出かけたりドイツとアイルランドでワーキングホリデー経験もある行動派です。

2017年にハーンの足跡を辿る旅の途中で、出会ったアイルランド人と結婚し、現在お子様が一人誕生しています。

ハーンの故郷で、命が繋がれたことに深い縁を感じますね。

最後に

セツの家系図を見てみると、士族の娘に生まれるも、家の没落のために身を粉にして家族を支えた過酷な幼少期を過ごし、ハーンと出会ったことで三男一女に恵まれ、文人の妻として公私共に夫を支えた生涯であることが分かりました。

日本人なら誰もが親しんだ怪談「耳なし芳一」や「雪女」も、セツ無くしては生れず、ハーンも文学者としてここまで飛躍はしなかったでしょう。

ハーンの創作の泉となり、彼と出会ったことで本来の才能を開花させたセツの半生を朝ドラ『ばけばけ』では、どう描かれるのか非常に楽しみですね。

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