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ドラマ『津田梅子 お札になった留学生』相関図キャスト!何した人?功績は?

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日本初の女子留学生としてわずか6歳でアメリカに渡り、生涯を女子教育の発展に捧げた津田梅子をモデルとしたドラマ『津田梅子 お札になった留学生』が、広瀬すずさん主演で放送されます。そこで今回は作品をもっと楽しむため、『津田梅子 お札になった留学生』のキャスト相関図、梅子の功績などをご紹介いたします。

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『津田梅子 お札になった留学生』キャスト一覧

津田梅子(幼名:梅)広瀬すず

旧幕府の役人の娘。わずか6歳のとき、父の勧めで日本初の留学生としてアメリカに渡ることとなった。女子留学生の中で最年少だった梅は仲間たちにかわいがられる。11年後に帰国。後に日本女子教育の先駆者となる。しっかりした意志を持っている。知的好奇心が旺盛で、やりたいと思ったことにはチャレンジするタイプだが、恋愛にはかなり奥手。

山川捨松池田エライザ

梅の親友。留学する際に、母親が「捨てて待つ」という意味で“捨松”と名づけた。留学中に梅と「ずっと独身を通し、協力して女子の学校を作ろう」と誓いあったが、帰国後は仕事を生かせるポストがなく、政府の実力者・大山厳の後妻となる。結婚後は、アメリカの上流階級にホームステイした経験を生かし、政府高官に西洋のマナーやダンスを教え、鹿鳴館外交に尽力した。晩年は梅子が作った女子英語塾の顧問となった。

永井繁子佐久間由衣

梅の親友。帰国後すぐに海軍士官・瓜生外吉と結婚。7人の子どもを育てるかたわら、留学中に大学の音楽科で学んだ経験を生かし、東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽部)や女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の教師を長年勤めた。

吉益亮宮澤エマ

梅の留学仲間だったが、彼女は眼病にかかって1年たらずで帰国した。10年後に、留学を終えた梅と再会する。父・吉益正雄により、亮子を校長とした私塾「女子英学教授所」を設立したがコレラを患い29歳の若さで亡くなる。

神田乃武井之脇海

海外に留学し、のちに学者として活躍。当時の日本では最も英語が堪能な人物と評されていた。捨松に好意を寄せる。

津田仙伊藤英明

梅の父。英語は話せ幕府の外国奉行の通訳をしていたことから、渡米経験を持つ。わずか6歳の梅を留学生としてアメリカに送り出すことを決断した先進的な考えを持つ人物。

津田初内田有紀

梅の母。娘を愛するが、西洋式の考えを身に着けて帰国した梅に戸惑う。

森 有礼ディーンフジオカ

初代駐米公使である“少弁務使”という立場でワシントンに駐在しており、彼女たちのホームステイ先を探すなど何かとサポートした。第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任。戦前の教育制度を確立した。

伊藤博文田中圭

明治政府の役人で後の初代内閣総理大臣。岩倉使節団の副使として幼い梅子と知り合い、帰国後に再会して、妻と子のために梅子を住み込みの通訳兼家庭教師として雇う。

下田歌子平岩紙

明治から大正にかけて活躍した教育者。歌人。桃夭女塾(現・実践女子大学)を設立。しかし、桃夭女塾は上流階級の子女に西洋式マナーを教える学校であり、梅が望む教育の場ではなかった。

晩年の梅(語り)原田美枝子

晩年の梅子。塾長を退いたのち、梅は病気療養のため鎌倉の別荘で過ごしていたが…。物語ではナレーションも務める。

『津田梅子 お札になった留学生』相関図


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ドラマ『津田梅子 お札になった留学生』あらすじ

時代が江戸から明治へ変わったばかりの頃、日本初の女子留学生が5人が、船に乗ってアメリカへと旅立った。

条約交渉と欧米視察のために編成された岩倉使節団に随行するメンバーとして選抜されたのだ。

留学の目的は、10年もの長きに渡ってアメリカの女子教育を受け、その経験を日本で生かすこと。

大きな期待を背負い、未知の希望に胸をふくらませながら、太平洋へと乗り出した女子のなかに、わずか6歳の最年少・津田梅子の姿があった。

当時の日本には女性が質の高い教育を受けられる場がなく、優秀な男性を育てるためには母親にも教養が必要だとする北海道開拓使の肝いりで、女子留学生の派遣が決まったのだ。梅のほかには14歳の吉益亮と上田悌、11歳の山川捨松、9歳の永井繁がおり、メンバーの中で最も幼いのが梅だった。仙から「国の期待を背負っていることを忘れるな」と諭された梅子は、小さいながらに母・初(内田有紀)ら家族と離れる寂しさをこらえ、使命を胸に刻んで渡米する。
アメリカで学びはじめて1年後、目の病気にかかった亮と激しいホームシックに襲われた悌の帰国が決まった。やさしい性格の亮を慕っていた梅は大きなショックを受けるが、父の言葉を思い出し、涙をこらえて留学を続ける。そんな梅を何かとサポートしたのは、のちに初代文部大臣となる森有礼(ディーン・フジオカ)だった。
明治15年、17歳になった梅(広瀬すず)は11年間におよぶ留学を終えて帰国。ともに留学をやり遂げた捨松(池田エライザ)や繁(佐久間由衣)と「誰もが学ぶことのできる英語学校を作ろう」と夢を語り合う。ところが、留学中に北海道開拓使は解散されており、事業を引き継いだはずの文部省は女子留学生に無関心で、梅は働く場所すら見つからない。国費留学生として国のために役立つ存在にならなければと思い続けてきた梅は、がく然。しかも、日本での女性の地位の低さにカルチャーショックを受ける…。 そんな中、繁が留学で出会った男性と結婚すると言い出す。日本の結婚は男女が対等ではないと考える梅は、心から祝福することができず…!? また、梅は繁の紹介で出会った大学教授・神田乃武(井之脇海)に胸をときめかせるが、彼は捨松に好意を寄せていることがわかり…!? その後、梅は伊藤博文(田中圭)の妻子の家庭教師として住み込みで働くことになるが…!?

日本人形のように、ひときわ小さく愛らしい少女は、生涯を日本の女子教育に捧げ、ガールズパワーで未来を切り拓いていく。

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津田梅子は何した人?功績は?簡単に解説

2024年に新たに5000円札の顔となる津田梅子という女性は、一体何をした女性なのでしょうか。

ここからは、津田梅子の功績や興味深いエピソードをご紹介いたします。

津田梅子の簡単年表

津田梅子の人物年表
1864年 江戸で生まれる
1871年 最初のアメリカ留学(~1882)
1883年 伊藤博文の家に住み込み、通訳兼家庭教師となる
1884年 桃夭女塾の教師となる
1885年 華族女学校の教師となる
1889年 2度目のアメリカ留学(~1892年)
1898年 アメリカの万国婦人連合大会に出席
1900年 女子英学塾(現・津田塾大学)設立
1929年 鎌倉で生涯を閉じる

洋装で記念撮影ができなかったワケ

アメリカに留学女学生5人は、サンフランシスコに到着後、早く洋服をきたくてたまりませんでした。

しかし、アメリカ人に着物を珍しがられ、なかなか洋服を着せてもらえず、2週間滞在後、やっとシカゴで洋装で記念撮影をしました。

津田梅子はアメリカでも成績優秀

津田梅子は、アメリカで猛勉強をし、成績優秀だったことで知られています。

9歳のときには、英語の詩を暗記してスラスラと話したことが、地元の新聞で紹介され、帰国前の17才の頃、女学校の卒業証書には「どの教科もよく理解し、特にラテン語、フランス語、数学、、物理学、天文学に優れていた」と記されています。

優秀な成績を残した梅子ですが、アメリカ生活に馴染みすぎて、日本の読み書きをほとんど忘れていたそうです。

伊藤博文との関係

梅子は岩倉使節団の副使だった伊藤博文と面識がありましたが、帰国後にパーティーの席で偶然再会します。

その件を機に、梅子は住み込みで、伊藤家の通訳兼家庭教師を務めました。

梅子の良き理解者だった伊藤博文でしたが、私生活はだらしなく、ベロベロに酔って帰宅する様子などが梅子の手記に残されています。

しかし、伊藤は梅子を家族女学校の教師に推薦したり、未来の女性のあるべき姿などを梅子に真剣に語ることもありました。

男尊女卑の時代に、男性が女性と対等に話すなど考えられませんでしたが、伊藤の言動は当時の男性としてかなり珍しいものでした。

ピアノや生物学も得意だった梅子

梅子はピアノもうまく、伊藤博文の家でピアノを教えたり、教会で賛美歌の伴奏をしていました。

東京音楽学校のピアノ教師だった永井繁子も、梅子のピアノの腕前をたより、学校でピアノを教えるのを手伝ってくれるように頼んだそうです。

また、帰国後もカエルの卵の研究をしていた梅子は、研究材料をアメリカのモーガンに送っていました。

モーガンは、研究を高く評価し「すぐにアメリカに戻ってきてほしい」と手紙をよこしたそうです。

もし、梅子がモーガンの言う通り、アメリカで研究を続けていれば、世界的な生物学者になっていたかもしれませんね。

ナイチンゲールやヘレンケラーと会っていた

2度目の留学から帰国後、梅子はアメリカで開かれた万国婦人連合大会に出席し、日本女性代表としてスピーチしました。

その際に、目と耳が不自由で言葉も話せないヘレンケラーと会い、看護師の功績が認められたナイチンゲールとも交流しました。

ナイチンゲールから贈られた花で、梅子が作った押し花が、津田塾大学の資料室に残されています。

教師としてスパルタだった津田梅子

女子英学塾を設立し、教師として勤務していた梅子でしたが、立派な女性教師を育てるべく、授業だけでなく、言葉づかいや生活態度、身だしなみにも厳しかったそうです。

生徒のなかで盗難事件が発生したときは、罪を名乗り出た生徒に弁償させ、卒業間近にもかかわらず退学を言い渡しました。

また、英語の発音を少しでも間違えようものなら、机をバンバン叩き、「ノー!ノー!ワンスモア!」と何十回も言い直させたそうです。

その熱心な教育の甲斐もあり、卒業生は教師や通訳、翻訳家などとして活躍しました。

最後に

近代女子教育のパイオニアとして知られる津田梅子をモデルにしたドラマ『津田梅子-お札になった留学生-』は、2022年3月5日(土)よる9時~放送です。

お楽しみに。

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