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収容所(ラーゲリ)から来た遺書ネタバレ!過酷なあらすじ~感動の結末まで

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想像を絶する過酷な環境のもと、最後まで希望を失わず、仲間を鼓舞し続けた山本幡男の壮絶な半生を描いた『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』が2022年に二宮和也さん主演で映画化されます。そこで今回は辺見じゅんによるノンフィクション小説『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』のあらすじから結末をネタバレ有りでご紹介いたします。

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『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』ネタバレ!あらすじ~結末まで


収容所(ラーゲリ)から来た遺書/辺見じゅん

抑留

敗戦直後、捕虜としてソ連軍に捕らえられた40万~60万人の日本人が、シベリアへ抑留されました。

そのなかの一人 山本幡男という人物が二宮和也さんが演じる『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』の主人公です。

太平洋戦争中 山本は、ロシア語の能力を買われ、大連にある南満州鉄道株式会社で翻訳家として働いていました。

元教師の妻との間には4人の子どもに恵まれ、幸せな日々を過ごしていましたが、昭和20年の敗戦を機に人生は一変します。

スパイ罪で強制労働20年の刑を下された山本は、寒い日はマイナス40℃となる “白い地獄”とも呼ばれたシベリアに送られます。

過酷な強制労働

「いつ帰国できるのか?」「自分は何の罪で捕らえられたのか?」それさえも分からず、日本人捕虜たちは極寒の大地で、全長4300kmのバム鉄道を完成させるため強制労働をさせられました。

想像を絶する寒さ、飢え、病気…線路の枕木の数だけ捕虜の命が失われたとも言われています。

強制収容所の場所は、北海道の最北端よりもさらに上に位置するシベリア全土に2000か所もありました。

そして、収容所は高さ3メートルの板と鉄条網で囲まれ、常に機関銃を持ったロシア兵が見張っていました。

1日に支給される食事は350gの黒パンと、野菜の切れ端しが浮いたスープだけ….。そのため捕虜たちはカエルやネズミも食べたそうです。

そして過ごしやすくなる夏でも、捕虜たちは辛い作業に駆り出されます。

冬は土が凍ってしまうので、夏の間に亡くなるであろう仲間の遺体を埋める穴を掘らされました。

日本人捕虜の間で山本は、翻訳の仕事をしていたためスパイだと密告されたりして、リンチの対象になることもあったそうです。

そんな過酷な状況のなかでも山本は、

「生きてれば、かならず帰れる日がありますよ」、「ぼくたちはみんなで帰国するのです。その日まで美しい日本語を忘れぬようにしたい」

そう言って、落ち込んだ仲間を励まし、拷問され裏切られても、いつも希望を持ち続け 「ダモイ(ロシア語)=帰国」という言葉を待ち続けていました。

さらに山本は流暢なロシア語を話し、俳句を詠むなど、一級の教養を持つ人物で、仲間から慕われていました。

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ついに帰国…しかし

昭和23年ついに山本は、ついに帰国できることになり日本に向かう船に乗船するため、列車で港に向かうことになりました。

そして、帰国船まであと一日というところで、列車は突然ソ連兵によって停車させられます。

ソ連兵は通訳ができる山本に名簿を渡し、名前が書かれているものはここで降りるように命令しました。そのなかには 山本の名前も記されていました。

そして理不尽な裁判にかけられた山本は、今度は捕虜ではなく戦犯としてハバロフスクで過ごすことになり、日本への引き揚げも打ち切りとなりました。

41歳になった山本は、希望を失わないように仲間たちにアムール会という句会を開催しました。

日本語が書いたものを持っていることは禁止されているので、地面に文字を書いては消して を繰り返して句を楽しみました。

そんななかの昭和29年、山本は病に倒れてしまいます。収容所でろくに手当てもされなかった山本は末期のガンの冒されていました。

遺書

収容所の団長だった瀬島龍三は、山本に遺書を書くことを提案し、山本は1日で遺書を書き上げ、慕っていた佐藤健雄に手渡しました。

その遺書は、

・本文、母、妻、子どたちへ向けた4通
・ノートにして15枚分

にもなる、思いの込もったものでした。

収容所では日本語が書いたものを持っているだけで罰せられますが、仲間の6人は遺書を隠しながら必死に暗記しました。

昭和29年。みなが作業で出払っている時間に山本は収容所で一人で亡くなりました。45歳でした。

母へ!妻へ!子ども等へ!

昭和31年シベリアから最後の抑留者が帰国。これでやっと戦争は終わったと思えましたが、そのなかの 6人の戦争はまだ終わっていませんでした。

ある者は、引き揚げ船のなかで暗記した遺書の言葉を、山本の字体に似せ句読点の一つ一つまで気を配りながら書き出しました。

そして彼らは、山本幡男の家族を訪ね、妻と4人の子どもたちに山本が残した言葉を伝えていくのです。

最初にやってきたのは、山村昌雄で「私の記憶していた山本幡男さんの遺書をお届けにあがりました」と言い本文の内容を伝えました。

続いて、野木貞夫はから分厚い封筒が送られてきました。帰国のどさくさで遺書のほとんどを忘れてしまった野木でしたが、山本の俳句を思い出す限り書き記していました。

3番目にやってきた後藤孝敏は子どもたちへの遺書を伝え、4番目の森田市雄かは、妻への文章が郵送で届けられました。

5番目は瀬崎清。彼は山本の字体に似せて書いた遺書を足にくくりつけてズボンの下に隠し持ち、帰国していました。

そして6番目は、病床の山本を最後まで世話をしていた新見此助が、山本の遺書とそれとは別に山本が最後に書いたメモを小包で送ってきました。

そのメモには 「望みはある。最後まで生きる。」という山本の強い想いが綴られていました。

遺書を受け取った妻は、その後ハバロフスクにある山本が眠る日本人墓地を訪れ、彼が好きだったお酒とたばこ、彼が信じた友情の証である遺書を手向けました。

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『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』感想

山本さんは、寒さと飢えと労働という過酷な環境の下でも決して腐らず、しなやかな精神力で人間の尊厳を保ち続けました。

そして仲間には、

「ぼくはね、自殺なんて考えたことありませんよ。こんな楽しい世の中なのになんで自分から死ななきゃならんのですか。生きておれば、かならず楽しいことがたくさんあるよ」

と励まし、シベリアでも「空の青さ」「季節の移り変わり」を楽しんでいたそうです。

それゆえに、家族に会いたいという希望を持ち、遠い国で散ってしまった山本さんの 叫びにも似た遺書には心を打たれます。

また、そんな山本さんの人柄に惹かれ、逝去後、彼との約束を果たそうと仲間たちがとった行動にも感動せずにはいられません。

なぜ国はもっと早く、捕虜たちを助けてあげなかったのでしょうか。

日ソ共同宣言が調印され、日本人が戦後を謳歌している11年後にやっと抑留者がすべて帰国しましたが、もう少し早ければ山本さんは家族に会えたのに!と本を読んでいて悔しくなりました。

現在もコロナ、人種差別、戦争…様々な問題があり「難しい問題だから仕方ない。」とあきらめてしまいそうになる社会ですが、山本さんの遺書を読めば、こんなことで希望を捨ててはいけないと感じました。

末期のガンで助からないと分かりつつも、一縷の望みを捨てず最後まで信じ続けた山本さん。残された子どもたちを始め、私たちに生き方の見本を教えてくれているようです。

最後に

山本幡男さんを主人公にした『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』は二宮和也さん主演で2022年全国東宝系にて公開されます。

戦後70年以上経ち、戦争の記憶が風化するなか、貴重なノンフィクション作品としてぜひオススメしたい1冊です。

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