【北条義時の家系図】政子が悪女というのは本当?義時の性格は?

大河ドラマ

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、鎌倉初期の源頼朝亡き後の権力闘争を描いた作品です。そこで今回は『鎌倉殿の13人』をもっと楽しむために、北条義時の家系図やそこから見えてくる政子や義時の性格についてご紹介いたします。

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北条義時の家系図

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『鎌倉殿の13人』キャスト相関図一覧は⇒こちら


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頼朝亡き後の北条政子や義時の策略

将軍頼家までも幽閉した時政に従っていた義時は、血で血を洗うサバイバルに明け暮れながら、最後は父すら蹴落としました。一方の政子も、頼朝を始め、彼の血を引く自身の子どもたちの死の陰謀に関わったとされています。

では、ここからは北条氏が幕府の実権を握った経緯を見ていきましょう。

政子と頼朝は格差婚だった

頼朝は、河内源氏の源義朝三男として生まれました。

源氏は天皇から“源姓”を賜っており、天皇と繋がっているところから貴人として格上の身分でした。

一方、政子の北条家は、伊豆国の豪族で源氏からみると格下の家柄です。

頼朝が流人の立場で、北条氏が後援者になるという状況でなければ、頼朝と政子の結婚は無かったかもしれません。

頼朝亡き後のピンチ

1199年に頼朝が突然亡くなります。そこで問題になったのは後を継いだ頼家と比企氏の関係です。

頼家の乳母は、比企能員(ひきよしかず)の妻、そして頼家の妻は比企能員の娘の若狭局で息子も誕生していました。

この頃、時政は頼家の後ろ楯となる勢力からは外されていた頃。

そんななかでの頼家と比企氏の密接な関係に、頼家の母・北条政子とその父時政は、権力や地位を比企氏に奪われる危機感を覚えます。

これにより北条氏と比企氏は熾烈な権力闘争を巡らせ、ついに1203年に「比企能員の変」が発生。時政は義時を大将にして、比企氏の館を攻め、頼家の妻と息子は炎に包まれ亡くなってしまいました。

ちなみに、この比企氏は、義時の愛した正室・姫の前の実家でもありました。父の命令とはいえ義時は複雑な心境だったでしょう。

政子の子どもは全滅

頼朝と政子の間には 4人の子どもがいましたが、全員 暗殺と病死で亡くなっています。

・大姫・・・病死
・頼家・・・暗殺
・三幡・・・病死
・実朝・・・暗殺

政子は、自分の子どもを殺して、実家のために権力を奪った鬼女として描かれることが多いですが、実はこれはかなり湾曲して伝わったものだと言われています。

鎌倉政権を上手く築いた父・頼朝の権力を借りて、関東武士団に対して好き勝手命令していた頼家と実朝は、北条氏の思惑だけでなく、不満を抱いた鎌倉御家人たちによって殺されました。

しかし、将軍を殺してしまったことは、御家人にとって都合の悪いこと。そのため女である政子に罪の一切を着せたのです。

我が子2人を見殺しにしなければならず、都合よく「尼将軍」にまつりあげられた政子は、実にかわいそうな女性だったのです。

実朝の暗殺を操っていたのは

1219年に鎌倉幕府だけでなく朝廷をも震撼させる「源実朝 暗殺事件」が発生します。

実朝を剣で刺したのは二代目将軍・頼家の息子で実朝の甥にあたる公暁だったのです。公暁は実朝を襲った際に「父の仇を討ったぞ!」と言ったそうです。

実朝暗殺事件の実行犯は公暁ですが、実は「実朝を消したら将軍の座に就けてやる」と義時が公暁をそそのかしたのです。

その証拠に、将軍が殺されたというのに、武士たちは取り調べを受けませんでした。そこには最高実力者である義時の力が働いていたのでしょう。

最後に

血なまぐさいパワーゲームを勝ち抜き130年も続いた北条氏。

義時は派手に表舞台に出るのではなく、謀略、陰謀を得意とし、鎌倉政権のもとで辣腕を振るいました。

一方の政子は、夫、息子、孫を犠牲にして、実家の繁栄を選んだ悪女として知られていますが、実は男たちの後ろめたさを押し付けられ、都合よく尼将軍にまつりあげられたということが見えてきました。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、義時や政子はどのように描かれるのでしょうか。興味深く見たいと思います。

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