『虎に翼』モデル三淵嘉子の子供や夫を家系図よりネタバレ

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女性初の裁判所長となった三淵嘉子さんの半生を波乱万丈に描いた朝ドラ『虎に翼』が2024年前期に放送されます。そこで今回は『虎に翼』をもっと楽しむため、ヒロイン猪爪寅子の実在モデル三淵嘉子さんの生い立ちを家系図を交えながらご紹介いたします。

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三淵嘉子の家系図と家族構成

弁護士を経て女性ではじめて裁判所長になった三淵嘉子(旧姓:武藤)は、香川県丸亀市出身で東大法学部卒の父・貞雄と金貸しや不動産業を営む裕福な家に育った母・ノブの間に第一子として誕生しました。

父の貞雄が結婚してすぐに台湾銀行のシンガポール支店に転勤となり、そこで生まれたのが嘉子です。

名前の由来は新嘉坡(シンガポール)にちなんで付けられました。

家系図

※無断転載禁止

嘉子には最初の夫との間に芳武という男の子が一人います。

その後 夫が亡くなり、再婚相手の連れ子である4人の子ども(一男三女)の継母となりました。

嘉子の家族構成が簡単に分かったところで、次の章からは嘉子の生い立ちについて詳しく見ていきましょう。

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三淵嘉子の生い立ち~晩年まで

才能あふれる少女

嘉子は幼少期から聡明であり、歌やダンスが得意な少女で放任主義の父・貞雄のもと伸び伸びと育ちました。

お茶の水高女(現:お茶の水女子大学)に進学した嘉子は、次第に法律家の道に進みたいと考えるようになりました。

しかし戦前の日本は「年頃の女性は大人しく家庭に入ること」が当たり前の時代。

良妻賢母にしたいと思っていた母・ノブは、嘉子が花嫁切符を捨てて法律に行くと知って大反対しました。

周囲から「変わり者」と見られていた嘉子は、母の反対を押し切って明治大学の法学部に入りました。

学校生活では、同じ道を志す女子部の同級生たちと楽しく過ごしながらも勉強はおろそかにせず、卒業式では総代を務めました。(男女あわせて成績がトップだった)

司法試験でのショックな出来事

昭和十三年、嘉子は優秀な成績で司法試験に合格しますが、面接の場でショックな事実を知ることになります。

裁判官になれるのは日本帝国の男子に限る。

女性というだけで裁判官にはなれない…。

その後、嘉子は悔しさを噛みしめながらも弁護士になります。

同時期に久米愛田中正子も、女性で初めて司法試験にパスをして弁護士になっています。

女性検事の第2号となった佐賀小里さんによれば、

久米愛さんは、スラックスでつかつか歩いてくるイメージ。三淵嘉子さんは、丸ぽちゃでおしゃべり好きの明るい人。中田正子さんは、すらりとした貴婦人タイプ。
出展元:「女性法曹のあけぼの 華やぐ女性たち」より引用

と日本初・女性弁護士の三者三様を表現しています。

最初の結婚

弁護士なった次の年、嘉子は父の中学時代の親友のいとこ・和田芳夫と結婚します。28歳のときです。

法律を学ぶような女性の元には なかなか良い縁談が来なかったそうですが、芳夫はとても優しい性格で嘉子は幸せでした。

結婚して一年ほどたった頃、二人の間に一人息子芳武が誕生します。

しかし ほどなくして芳夫は兵隊にとられ戦地に行くことになり、嘉子も芳夫を連れて福島県に疎開し、百姓のまねごとをしてなんとかその日をしのいでいました。

そして終戦。芳夫は中国に渡ってすぐに発病し、長崎の陸軍病院に戻ってきていましたが、嘉子に会う間もなく亡くなってしまいました。

嘉子は悲しみに暮れましたが、芳武はまだ3歳。

両親も他界したいま、幼い芳武を抱えて生きていくためには裁判官になるしかないと決意したのでした。

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いよいよ裁判官へ

戦後 男女平等が宣言され、ようやく石渡満子が女性裁判官の第一号となりました。

嘉子も家庭裁判所の勤務を経て、4か月遅れで裁判官になることができました。

その頃 嘉子は、裁判長・近藤完爾という人物に出会い「あなたが女性であるからといって特別扱いはしない」と言われ、自分が男と平等に扱われることに喜びを感じていました。

そうして嘉子は、子育てをしながら仕事に精を出し、名古屋への転勤を経て東京に戻ってきました。

再婚

東京での生活が再びスタートした頃、嘉子がいる判事室をたびたび訪れる紳士がいました。

初代最高裁長官の息子で自身も裁判官の三淵乾太郎です。

二人は知人の紹介で知り合い仲を深め、恋愛の末に昭和三十一年に結婚しました。嘉子41歳、乾太郎50歳のときでした。

どちらかというと乾太郎の方が嘉子に夢中で、一緒に生活を始めてからも嘉子が権力を握りました。

お互いが子連れの再婚で、乾太郎には前妻のとの間に4人の子どもがおり、特に嘉子と彼の長女が衝突。

仕事では理知的な嘉子でしたが、プライベートでは感情的で自分の意見を強引に押し通すときもあったようです。

初の女性裁判所長に

乾太郎と再婚して16年後に嘉子は新潟家庭裁判所の裁判所長になりました。

明るくお茶目な嘉子は職員たちから慕われ、調停室の壁紙を優しい色に塗り替えたり、当事者の片方が暴力を振るったときのため防犯ブザーを付けるなど女性ならではの視点で気配りも欠かしませんでした。

嘉子は特に少年の問題に熱心に取り組み、様々な家庭のトラブルに向き合いました。

そして嘉子は65歳になった頃、定年のため裁判官を辞めました。

晩年

嘉子は退官後、日本婦人法律家協会の会長をはじめいくつかの役職を歴任。

プライベートでは、夫の乾太郎や子どもたちとの旅行やマージャンを楽しみ、穏やかな生活を送っていました。

しかし昭和五十八年、嘉子に病が襲いかかります。肺腺がんです。

見つかったときには体の他にも転移しており、手遅れの状態でした。

薬の副作用、激しい痛み、凄まじい闘病の末、翌年に嘉子はついに69歳でこの世を去りました。

最期は、これまでの闘病が嘘のように静かに息を引き取ったそうです。

葬儀、告別式には2000人もの人が弔問に訪れ、嘉子との別れを惜しみました。

『虎に翼』キャスト・相関図は⇒こちら

最後に

女性として法曹界の先頭を歩き、後輩たちに道を切り拓いた三淵嘉子。

彼女が少女のようにいつも微笑みを絶やさず、信念を貫いた姿を、ぜひ今度の朝ドラ『虎に翼』で多くの人に知ってもらいたいなと思います。

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