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朝ドラ『エール』古山裕一の実在モデルは古関裕而!あの有名曲を生み出した人物だった!

朝ドラ

朝ドラ『エール』の主人公の古山裕一には、古関裕而(こせき ゆうじ)という実在モデルが存在します。

その名前を聞いてもピンとくる人は少ないかもしれませんが、「六甲おろし」「オリンピック・マーチ」など有名曲を数多く手がけた作曲家です。

そこで今回は、『エール』をもっと楽しむために、福島県生まれの作曲家・古関裕而の半生をまとめてみました。

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『エール』古山裕一の実在モデル古関裕而の生い立ち

福島生まれ呉服屋の跡取り

古関裕而は、 1909年(明治42年)8月11日に 福島県福島市大町に生まれました。

古関裕而という名前は、知らない方もいるかもしれませんが、福島県では「古関裕而記念館」があったり福島駅には銅像もあるほど有名な人物です。

朝ドラ効果なのか最近では、古関裕而ラッピング仕様の自動販売機が設置されるほどです(笑)。

古関の生家は、 「喜多三(きたさん)」という呉服店を営んでおり、番頭、小僧を十数人も抱える市内有数の老舗店として繁盛していました。

父親が音楽好きで、大正初期には珍しい蓄音機を、使用人の娯楽用に購入し、余暇にはいつもレコードをかけており、古関裕而は、幼少期より何気なく蓄音機から流れる音楽を聴いて育ちました。

ちなみに、歌手の松任谷由実さん実家も呉服店なんですよ。

一昔前は、着物関連産業は2兆円産業と言われ、裕福な職業の見本だったのです。

10歳で楽譜が読めるように

地元の福島県師範学校附属小学校に入学した古関は、小学3年から6年まで受け持ってくれた、担任遠藤喜美治先生と出会います。

遠藤喜美治先生は、唱歌など音楽に精通した先生で、古関も熱心な指導を受けました。

そんなこともあり、 10歳で楽譜が読めるようになり、卓上ピアノで作曲を始め、クラスの友人から作曲の依頼を受けるようになりました。

ピアノなどを習っている子どもなら、10歳で楽譜を読めることは珍しくないかもしれませんが、古関の場合は、楽譜に起こすことができたようなので、すごいことだと思います。

本格的な作曲と家業の廃業

13歳で福島商業学校に入学した古関は、妹尾楽譜や山田耕筰著の「作曲法」などから独学で作曲・編曲するようになります。

また14歳の頃には、関東大震災をテーマに「大地の反逆」という曲を作曲しています。

校内弁論大会では、ハーモニカで音楽をつけることにり古関が書き溜めていた曲を、合奏用に編曲して演奏することになりました。

これが初めて 自分の作曲した曲が披露された日であり、福島商業学校時代が音楽家としての基礎となりました。

一方、実家の呉服店が廃業したことによって、一族を養わなくてはならなくなりました。

作曲コンクール応募と結婚

島商業学校を卒業後、しばらくは音楽の勉強に専念した後、川俣銀行(現東邦銀行川俣支店)に就職します。

銀行で働きながら、時間があれば作曲に明け暮れる日々でした。

この頃、ペンネームを「裕而」の名で、 舞踊組曲「竹取物語」をイギリスの作曲コンクールに応募し入賞。

これは、日本人初の国際的作曲コンクールにおける入賞であり、新聞でも大々的に報道され評価されたことで、本格的に音楽の道を志し、川俣銀行を退職します。

昭和5年1月のある日、新聞で古関が入賞したという新聞記事を読んだ、声楽家志望の愛知県豊橋市在住の 内山金子(きんこ)が、古関にファンレターを送ります。

それがきっかけで二人は、4か月ほど文通を続け、豊橋まで古関が会いに来て、そのまま一緒に金子が福島に付いてくる形で 結婚します。

結婚したときの年齢は、古関20歳、金子18歳の頃であり、かなりのスピード婚だったにもかかわらず、晩年まで仲が良く、 おしどり夫婦として知られています。

二人の出会いから結婚までの経緯は、お見合い結婚が主流だった時代には考えられないような、大胆で情熱的なものだったのですね!

↓関内音のモデルは古関金子!才能ある声楽家であり過干渉な母?!↓


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上京

21歳の頃には、コロムビアの顧問山田耕筰の推薦で、コロムビア専属の作曲家として、夫婦で上京します。

プロの作曲家として歩み出した古関でしたが、初のレコード作品「福島行進曲」と「福島夜曲(ふくしませれなーで)」は思うようにヒットはしませんでした。

初のヒット曲になったのは、26歳の頃に作曲した「船頭可愛や」。

ヒット曲がなく給料をもらって心苦しかった古関は、これで胸をなでおろしたことでしょう(笑)。

そして27歳の頃には、かの有名な 「大阪タイガースの歌」(通称:六甲おろし)作曲しています。

この頃、声楽家志望だった妻の金子は帝国音楽学校に進学しています。

また、この頃には長女・雅子、次女・紀子(みちこ)が誕生しています。

戦歌で多くの名作を残す

 

日中戦争から太平洋戦争へという時代に、古関は「露営の歌」などの戦時歌謡曲(時局歌)も多く作曲しました。

戦時歌謡曲は軍歌と混同しがちですが、

・軍歌・・・軍の依頼で軍の組織のために作曲されるもの
・歌謡曲・・・民間から生まれる歌謡曲

という違いがあります。

古関が得意とするクラシックと融合した哀愁のある切ないメロディは、戦争で傷ついた人々の心に染みわたり、親しまれました。

自身も、南方慰問団派遣員となりビルマに派遣、約1ケ月軍隊生活を送り、日本兵の大半が命を落とし、のちに「史上最悪の作戦」といわれたインパール作戦に参加。

時に 命の危険を感じながら、前線の悲惨な体験を目にしました。

なんとか曲を書き上げた古関でしたが、自分の曲で鼓舞された若者たちが戦地に向かってしまったという後悔は戦後も続いていきます。

戦後

戦後は、戦死してしまった人への自責の念を持ちながらも、日本の人々を明るくするために、鎮魂歌「長崎の鐘」、「鐘の鳴る丘」、「とんがり帽子」などを作曲します。

1946年にラジオドラマが開始されてからは、テーマ曲のみならず挿入歌も担当し、「山から来た男」、「鐘の鳴る丘」、「さくらんぼ大将」、「君の名」などヒット作を多く生み出しています。

一方で、 全国高等学校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」や、1964年開催の東京オリンピックの開会式に、流された「オリンピック・マーチ」などのスポーツ音楽なども精力的に作りました。

甲子園で流れる「栄冠は君に輝く」が、古関さんの作曲とは知りませんでしたし、私の地元の高校の校歌も作られていると聞いて、その活動の広さに驚きました。

またこの頃には、長男・正裕が誕生し、金子との間には3人の子どもを授かりました。

晩年

これまでの功績が讃えられ60歳で紫綬褒章受章、70歳で福島市名誉市民となり勲三等瑞宝章受賞します。

またフジテレビ系の音楽番組『オールスター家族対抗歌合戦』では10年以上も審査員を務めるなど活躍の場を広げていましたが、71歳の頃に最愛の妻・金子が亡くなってしまいます。

妻や故郷の福島を愛し、長年に渡って人々に寄り添う曲を生み出してきた古関自身も、77歳の頃に健康上の理由から作曲活動を引退し、1988年(平成元年)80歳の頃に帰らぬ人となりました。

古関裕而のお墓は川崎と福島の二か所にあり、川崎では金子と共に眠っています。

亡くなった後も、JR福島駅の発車メロディに在来線ホームに「高原列車は行く」、新幹線ホームに「栄冠は君に輝く」が採用されるなど、福島を中心に古関を讃える動きが活発となっています。

↓『エール』キャスト一覧・相関図・追加キャスト・子役を総まとめ↓

古関裕而が生み出した曲

コロムビアレコードと専属契約を結んで以降、応援歌、戦時歌謡、ラジオ歌謡、校歌、社歌など幅広く手掛けてきた古関裕而。

その一部をご紹介いたします。

応援歌

古関は多くのスポーツ応援歌を作曲したことで知られています。

1964年の「オリンピックマーチ」に代表される強くも爽やかな曲調が魅力で、いまも歌いつがれています。

・紺碧の空(早稲田大学応援歌)1931年
・大阪タイガースの歌(六甲おろし)1936年
・栄冠はきみき輝く(全国高校野球大会)1949年
・巨人軍の歌(闘魂こめて)1963年

戦時歌謡

「船頭可愛や」のヒットで古関には、作曲依頼が殺到します。

戦争の影が深くなると、国民を鼓舞する戦時歌謡や国民歌謡をする曲を求められるようになりました。

哀愁漂うメロディが、兵隊だけでなく家を守る女性の心に響きました。

・露営の歌 1937年
・愛国の花 1938年
・暁に祈る 1940年

戦没者の鎮魂歌

自分の曲に鼓舞され、戦地のおくられた兵士が戦死したことに心を痛めた古関は、戦後は鎮魂歌を作曲。

国民の戦争でふかく傷つき、疲れた心を癒していきました。

・フランチェスカの鐘 1948年
・ニコライの鐘 1951年

ラジオ演劇でも活躍

劇作家の菊田一夫とタッグを組んで挑んだのがラジオドラマ。

戦後を懸命に生きる国民に寄り添った曲を多く生み出しました。

・とんがり帽子 1947年
・いよまんての夜 1950年
・さくらんぼ大将 1951年

他にも、映画『モスラ』の挿入歌「モスラの歌」やラジオ第1の「日曜名作座」のオープニング曲も手掛けました。

最後に

生涯を通して好きな音楽に邁進し、愛する妻と歩んだ作曲家人生は古関にとって順風満帆な人生だったようです。

生涯の作曲数は5,000曲以上とも言われる古関裕而の曲は、皆さんも一度は聞いたことがあるはずです。

朝ドラ『エール』放送を機に、古関の功績を改めて振り返ってみたいですね!

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