『おちょやん』天海一平の実在モデル渋谷天外の家系図
朝ドラ『おちょやん』の天海一平の実在モデルである二代目・渋谷天外の家族や家系図をご紹介いたします。
渋谷天外は、かなりの女好きとして知られており、千栄子と結婚したものの数多くの女性と浮名を流し、結果的に離婚しています。
天海一平の実在モデル渋谷天外の家系図と家族構成
二代目・渋谷天外の家族関係はやや複雑ですので、以下に家系図をまとめています。
渋谷天外の家系図
天海一平の実在モデルである二代目・渋谷天外の本名は、渋谷 一雄(しぶたに かずお)といい、1906年(明治39年)6月7日に 京都市に、初代・渋谷天外の長男として誕生しています。
複雑な生い立ち
天外の生母は、髪結いの女性だったようですが、生後3か月の天外を残し実家に戻り、父の初代・渋谷天外と離婚しています。
そのため、天外は父と同棲していた和裁士の北村ウノに育てられました。
北村ウノという女性は、血の繋がらない天外を可愛がり、優しく美しい女性だったようです。
幼い天外は、ウノを本当の母親と信じて育ちました。
8歳で初舞台
8歳で初舞台を踏んだ天外は、舞台でチヤホヤされるのも悪くないとは思いつつも、役者には心惹かれず、工業高校への進学を希望していました。
しかし、天外が10歳の頃に、父が公演先で35歳の若さで亡くなってしまいます。
父の最期の言葉は「一雄を頼む!一雄を頼む!」だったそうです。
芝居をやる気がなかった天外でしたが、1芝居茶屋「岡嶋」に居候することになり、各地を巡業することになります。
15歳で女郎曲師と初体験を済ませると、酒、ギャンブル、女遊びを覚え、堕落した生活を送るようになります。
千栄子との出会い
芝居茶屋「岡嶋」の向かいには、仕出し料理屋「浪花料理」がありました。
そこで天外は、“おちょやん(子どもの女中)”をしていた浪花千栄子と出会います。
当時は売れない女優だった千栄子は、女中だけでは生活が苦しく、「岡嶋」で住み込みで働くようになります。
千栄子は茶屋の1階、天外は3階に住んでおり、女優のヘルプとして千栄子が家庭劇に参加するようになったことで親密になっていきます。
その後、天外と半同棲生活のようになり、お互い24歳の頃(昭和5年)に二人は結婚。
しかし、結婚を正式に発表したのは9年後の昭和14年のことでした。
↓竹井千代の実在モデルは浪花千栄子については⇒こちら↓
松竹劇団結成
曾我廼家十吾、石川薫らと松竹家庭劇を結成した天外は、千栄子も呼び寄せ、全国を巡業します。
曾我廼家十吾は、幼少期よりモノマネが得意で子役などで活躍し、、18才でお婆さん役をこなすなど天才的な役者でした。
しかし、新しい芝居をやりたい天外と、古き良き時代の芝居を大切にしたい曾我廼家十吾との対立が勃発。
天外は、松竹家庭劇を去り、脱退後は劇団「すぃーとほーむ」などを結成します。
しかし、父のライバルで盟友だった曾我廼家十郎が病死したことを知り、すぐに劇団「すぃーとほーむ」を解散し、大阪に帰ります。
そして、松竹新喜劇を立ち上げ座長になるのです。
経営者としての実力
役者よりも脚本を書くことが好きだった天外は、松竹劇団員を束ねる統率力、客を呼ぶための企画・宣伝力を兼ね備え、経営者としての手腕を発揮します。
お客さんが笑っているから安心するのではなく、笑い声には批判も含まれていることを肝に銘じて、常に厳しい目で笑いと向き合っていました。
そして、テレビのような即興芸を嫌い、一本筋の通った芝居を目指したことでも知られています。
千栄子を捨て愛人の元へ
天外と千栄子は、なかなか子どもに恵まれませんでした。
そんな頃、愛人だった九重京子が妊娠したと聞いた天外は、千栄子と離婚し、京子と再婚します。
女遊びが激しかった天外に呆れながらも、浮気には目をつぶってきた千栄子でしたが、同じ女優で後輩の九重京子との浮気だけは許せなかったのです。
この一件で、天外は、松竹新喜劇の看板女優だった浪花千栄子を捨てた男として、批判にさらされました。
松竹を去った千栄子へは、当てつけのように「おかげで、若い女優がぐんぐん成長した。」と語ったそうです。
千栄子は晩年、京都の嵐山で旅館を営むようになってからも、庭の石に渋谷天外という文字を彫り、毎日 踏みしめていたそうですwww。
藤山寛美との出会い
千栄子が去った松竹新庭劇に再びピンチが訪れます。十吾の退団です。
しかし、天外は当時の弟子的な存在だった藤山寛美とコンビを組み人気を博していきます。
藤山寛美と言えば朝ドラ『芋たこなんきん』のヒロインでしられる藤山直美さんの父親です。
天外の最後
天外さんは、歳を重ねても、ろくに食事をとらず酒を浴びるように飲み、女遊びをするなど不摂生な生活を続けていきます。
そしてついには、松竹新喜劇の南座での公演中に脳卒中により倒れ、半身麻痺になってしまいます。
追い打ちをかけるように寛美の借金や暴力団の問題も浮上し、天外という脚本家を失った松竹新喜劇は、徐々に人気が低迷していきます。
天外は、療養中も寛美を気にかけ、舞台復帰を支援し、松竹新喜劇の立て直しに尽力します。
自身も、1日8時間ものリハビリを必死にこなし、なんとか舞台に復帰し、64歳の頃には決別していた十吾とも一緒に舞台に立ちました。
そして、その後の生涯も舞台に捧げ、76歳でこの世を去りました。
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最後に
亡くなるまで700本もの脚本を残してきた二代目・渋谷天外ですが、こんな言葉を残しています。
「蝶が飛び、花が咲いたと笑う世界を目指すために、我々は喜劇をやっている」
(意味:「そうやって笑える世界がきたら、喜劇はいらなくなる」)
二代目・渋谷天外が活躍した終戦直後は、食べることに必死で一般市民は、喜劇を見て笑うという余裕がなかった時代です。
そんな人々に、少しでも笑いを提供できたらという思いから、天外はこの言葉を残しました。
現在、テレビをつければ、お笑い芸人を見ない日はありません。
大阪の芸人だけでなく、東京の芸人さんも次々と登場し、テレビだけでなくYouTubeなどネットの世界にも笑いが溢れています。
笑いの先見があった天外が言ったように、現代は“喜劇”の役目が終わったとも言えます。
しかし、今期の『おちょやん』の放送で、人情味あふれる松竹新喜劇が、再び脚光を浴び、若い世代が知るきっかけになったらなと感じます。
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