徳川家康がしたことをエピソード・性格から簡単に解説
大河ドラマ『どうする家康』で再び注目される徳川家康の生涯を、信長、秀吉とのエピソードを交えながら簡単にご紹介いたします。
徳川家康の生涯やしたことを簡単に
◆人質だった不遇の幼少期
戦国時代中期の1542年(天保11年)三河の岡崎城で、松平広忠の長男として竹千代(後の徳川家康)は生まれました。
このとき、尾張の 織田信長は9歳、貧しい尾張の農民の子だった豊臣秀吉は7歳。
竹千代が生まれた松平家は、尾張の織田家と駿河の今川に挟まれていたため、常に織田と今川の顔を伺う弱小領主でした。
竹千代が3歳のとき、母・於大の方の実家が約束を破り、織田家と手を組んだため、織田家と対立する今川家は松平家も織田に寝返るのではという疑惑を抱きます。
そこで父・広忠は、今川との関係を保つため於大の方と離縁し、6歳の竹千代は織田家に捕らわれの身になってしまうのです。
人質になった竹千代は2年にわたり織田家で過ごしていましたが、そこで9歳年上の髪の毛がボサボサの少年と出会います。
その人物は“織田のうつけ”と呼ばれた織田信長でした。
信長ななぜか家康を気に入り、実の弟のように可愛がったそうで、家康も信長に懐いていました。
そんななか、評判がおもわしくなかった父の広忠が部下によって暗殺されことにより、竹千代はわずか8歳で岡崎の領主となります。
やっと故郷に戻った竹千代でしたが、今度は今川義元から「幼い竹千代を養育したい」。つまり人質になれと命じられます。
まだ8歳であるのに両親も亡くして、再び人質になった竹千代。不憫ですね。
今川での生活は単調で、何もすることがなかったそうですが、そこで竹千代は、自分を抑える力を身に着け、人間観察をして人を見る目を養いました。
家康の我慢強さや人心掌握術は、この不遇な人質時代に得たものだったのかもしれません。
一方で竹千代は、人質の身でありながら、今川家の学問の師であり参謀でもあった太原雪斎から気に入られ、勉強を教えてもらいました。
やがて14歳で人質のまま元服となった竹千代は、松平元信と名乗るようになります。
◆家康の結婚と妻子の悲劇
16歳になると義元の姪である築山御前と結婚し、長男・信康をもうけた家康ですが、義元はなかなか岡崎には返してくれませんでした。
義元は家康がこれからの今川を支えてくれると見込み、松平を今川の一門にしようと考えていました。
だから、自分の名前から一文字とって「元信」と名付けたり、姪を家康に嫁がせたのです。
そんななか、今川義元が桶狭間の戦いで奇襲にあって亡くなってしまい、あっけなく家康は岡崎に戻れることになります。
元信は今川との縁を断ち切るため、名を「元康」に改め織田信長と同盟を結びます。
それから、今川に人質のまま残されていた築山御前と息子の信康が岡崎に戻ってきます。
しかし、肉親の愛を知らない家康は妻と子にそっけなく、一向一揆の対応にも追われていたため、家臣に接するように事務的に対応するだけでした。
そのうえ、妻子がいる岡崎城から浜松城にうつった家康は側室に次々と子どもを産ませたため、築山御前の内心は穏やかではありませんでした。
家康の合理的な妻、側室選びについて詳しくは⇒こちら
妻子にかまうことない家康は、信長が止めるのも聞かずに武田信玄と三方ヶ原の戦いを行いますが大敗。
家康は、そのときの惨めな自分を絵にして残し、「焦るべからず…」と自分への戒めとしました。
「自撮りをはじめたきっかけは敗北のくやしさを忘れないようにするため」というキバナにについての説明、この絵は家康が三方ヶ原の戦いでの敗戦を忘れずに慢心を自戒するために描かせたという説があるという話を思い出すな pic.twitter.com/NCCFzNOKWw
— すずきじゅんじ (@fkgwfkgw) June 29, 2020
そんななか、「築山殿が武田勝頼と通じ、織田、徳川家を滅ぼそうとしている」という疑惑が持ち上がります。
信長はすぐに家康に「築山殿と信康を始末せよ」と命じますが、家康はなんとか二人を逃がす方法を考えますが、二人は諦めているのが逃げようとしませんでした。
そして家康は、信長から催促されたこともあり、「これ以上、三河の地を戦乱に巻き込むわけはいかない」として、信康を切腹させ、築山殿は家臣に殺害させました。
信長との同盟をより強固にした家康でしたが、妻子を犠牲にしたことは生涯に渡って心の傷となりました。
◆天下人へ
その後、信長は家臣の明智光秀の反逆に遭い、あっけなく世を去ります。(本能寺の変)。
信長が亡くなり、頭角をあらわしたのが 豊臣秀吉。
秀吉は山崎の合戦で明智光秀をやぶり、天下人となりましたが、家康は三河からじっとその動向を観察していました。
そして、天下統一を果たし自分勝手に振る舞う秀吉に、自分の存在をアピールするため小牧・長久手の戦いを仕掛けます。
戦いに勝利した家康ですが、なぜかそれ以上の追撃をやめ、自分の次男を養子に差し出して和睦します。
家康、信長、秀吉の親戚関係の家系図は⇒こちら
家康はここで戦えば、相討ちになり共倒れになるか、弱ったところを他者につけこまれてしまうと冷静に判断したといいます。
さすが、合理主義の家康。
一方 秀吉は、家康を自分のいる大阪の近くに置くのは危険だと判断し、ド田舎の江戸に家康の領地を移しました。
家康は江戸に入ると、ボロボロの江戸城を改修し、港を開き、町と街道を思い通りに整備していきました。
そんななか、太閤となった秀吉は地盤固めもそっちのけで、朝鮮出兵という無謀ともいえる侵略に走り出します。
秀吉も信長と同様に、権力者になってから周りの意見を聞かなくなり、家臣も注意しなくなったため、ブレーキをかけられなくなっていったのです。
そして秀吉が亡くなると、実力者の家康に秀吉の家臣たちは次の天下人になろうと戦いを挑みます。(関ケ原の合戦)
結果は、着々と準備をしていた家康の大勝利。
続いて家康は、征夷大将軍となり江戸に幕府を開き、名実ともに天下人となりました。
家康・信長・秀吉の性格をあらわすエピソード
信長、秀吉、家康の性格を表わす例えとして、
信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」
家康「鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス」
というものが有名ですが、ここからは3人の性格をあらわすエピソードをもう少しご紹介します。
◆信長、秀吉、家康のクセ
まずは3人のクセをご紹介します。
信長・・・鼻をほじる。
秀吉・・・話相手の体を親しげに触る。
家康・・・血が出るほど爪をかむ。
鼻をほじるというちょっと残念なクセがある信長。
信長はこのクセを「一国の主がみっともない」と注意され、よけい意地になって鼻をほじり続けたそうです。
万物の尺度が自分にあると思い込んでいた信長らしいエピソードですwww。
秀吉は「人たらし」と言われたイメージ通りのクセですね。
また、冷静沈着なイメージのある家康ですが、戦場では異常なほど熱くなりブチ切れることも多かったとか。
爪を血がにじむまで噛んだり、拳で鞍の前輪を血が流れるほど叩くクセもあり、晩年はそのせいで指がスムーズに曲がらなかったと言われています。
また家康の性格を表わす戦のエピソードでいえば、ある合戦で足軽が指揮官の命令を無視して大手柄をあげましたが、家康は「命令に背くなどもってのほか!」とこの足軽を追放したこともあったそうです。
秩序を重んじる家康らしい決断です。
◆趣味
信長・・・幸若の舞
秀吉・・・茶の湯
家康・・・鷹狩り、薬の調合
信長の趣味は舞。
今川義元と戦った桶狭間の合戦で「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり」と歌って舞を踊ったことは有名ですね。
秀吉は千利休を信任し、社交の場としても茶の湯を利用したほか、純金の組み立て式の茶室を作り、戦場まで運んで楽しみました。
家康は、体を鍛えられ、領内を見回りできる利点もある「鷹狩り」を好み、生涯に渡って好んだそうです。
また、若い頃から健康を気遣っていた家康は、薬の勉強をして自分の体に合う薬を調合する趣味を持っていました。
晩年、食あたりにあっても医者の用意した薬は飲まず、自分で調合した薬ばかりを飲み、結果症状が悪化して亡くなったと言われています。
いくら冷静だった家康も、晩年は信長や秀吉と同じく、自分が正しいと思い込み、周囲の意見を聞かない頑固者になっていたのでしょうかwww。
『どうする家康』相関図キャストは⇒こちら
最後に
家康の生涯を簡単にまとめてみると、幼い頃の人質生活の影響で、家族とうまく接することができず、その結果、妻子を亡くす悲しい結果を招いたことがわかりました。
一方で、不遇の幼少期より我慢強さや観察力を身につけ、時勢を読んだことで、過酷な戦国時代を生き抜き、運が開けたこともみえました。
大河ドラマ『どうする家康』でも、その人柄をあらわすようなエピソードを楽しみにしたいとおもいます。
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