徳川家康の【家系図】織田信長や豊臣秀吉と親戚関係を簡単に
2023年大河ドラマ『どうする家康』で注目されている江戸幕府初代征夷大将軍 徳川家康。戦国武将は正室の他に側室も多く、政略結婚もあるため複雑です。そこで今回は、家康と信長、秀吉の関係を家系図で簡単に分かりやすくご説明いたします。
徳川家康の家系図!信長や秀吉との親戚関係
◆徳川家康の家系図
◆家康の両親
家康の父は松平弘忠、母は於大の方です。
今川氏の庇護のもとにあった弘忠は、尾張国と三河国の国境に領地を持つ水野忠政の娘・於大の方を妻に迎えました。
しかし、水野家が今川家から織田家へ謀反を起こしたため、弘忠は於大の方と離縁。(その後、於大の方は久松俊勝という武将と再婚)
その後、織田氏に岡崎城に攻め入られた弘忠は今川義元に援軍を求めますが、今川家から見返りとして竹千代(のちの家康)を求められ、息子を駿府へ送りました。
さらに、松平氏を裏切った家臣が、竹千代を織田信秀に売り飛ばしたことにより、幼い竹千代は人質として織田家のもとで過ごすことになったのです。
◆家康と信長、秀吉は親戚関係
家康、信長、秀吉を繋げているのは、信長の妹・お市の方と浅井長政の娘たちです。
信長の姪でもある3人の娘・茶々、初、江のなかで 江は家康の息子・ 秀忠と、 茶々は 秀吉の妻となっています。
ちなみにお江は、秀忠より7つも年上で3度目の結婚でした。
また、秀忠とお江の長男・家光は3代将軍となり、長女・千姫は、秀吉と茶々の息子・秀頼と結婚しています。
徳川家康の生涯や性格の解説は⇒こちら
◆家康の正室、側室と子ども
家康には11男5女の子どもがいたとされています。
正室は、今川義元の姪・築山殿(つきやまどの)と豊臣秀吉の妹・朝日殿(あさひどの)で、どちらも政略結婚です。
幼少期の家庭環境が良くなかった家康は、側室を選ぶ際は容姿や家柄よりも、世継ぎを確実に産んでくれる健康でたくましい女性を選びました。
家康の合理的な妻、側室選びについて詳しくは⇒こちら
◆家康の子孫
家康は子孫を残すことにも慎重で「徳川御三家」なるものを創り、徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房を独立させ、大名家にしました。
御三家は、義直を祖とする尾張藩、頼宣を祖とする紀州藩、頼房を祖とする水戸藩となっていきます。
これにより全国に散った徳川家の子孫は、徳川の繁栄と治世を支えていくことになりました。
徳川265年の歴史のなかで征夷大将軍に就いた人物は15人いますが、
●秀忠(2代目)ー武家諸法度の制定
●家光(3代目)ーキリスト教を禁止・参勤交代制定・鎖国を完成
●綱吉(5代目)ー生類憐みの令
●吉宗(8代目)ー享保の改革
●慶喜(15代目)- 大政奉還(幕府の終幕)
などは、一度は名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。
『どうする家康』では、3代目・家光あたりまで描かれるかもしれませんので、家系図を頭に入れておくと楽しめますよ。
最後に
食うか食われるかの戦国時代では、自由恋愛よりも政略結婚が基本だったため、有力武将同士が婚姻関係を結ぶことが多々ありました。
そのため家康、信長、秀吉も家系図を見ると親戚関係であることが分かりました。
しかし、血縁関係があっても裏切りや謀反などが起こり、しくじれば「死」が待っている過酷な世。
大名たちは「負けたら終わり」の世界で、お家を存続させるため婚姻や人質交換を行ったことが家系図から分かりました。
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