徳川家康【妻と子の家系図】合理的な側室選びとは?
大河ドラマ『どうする家康』の放送で注目されている徳川家康は、生涯に11男5女をもうけています。しかし、二代目将軍の秀忠は知っていても、妻や側室についてはあまり知られていないのではないでしょうか。そこで今回は、家康の家系図や合理的な側室選びの基準をご紹介いたします。
徳川家康の妻と子の家系図
◆徳川家康の妻と子一覧
戦国の世を終わらせて天下人になった徳川家康ですが、幼少期の家庭環境は良いとは言えませんでした。
両親の愛を知らずに育った家康は、家族に対しても実にシビアで、側室選びに関しても合理的。
正室は、今川義元の姪・築山殿(つきやまどの)と豊臣秀吉の妹・朝日殿(あさひどの)で、どちらも政略結婚です。
一方、側室は約20名ほどいたとされていますが、その選び方には家康のこだわりがありました。
豊臣秀吉は、身分の低い出だったため家柄や容姿を重視したそうですが、家康はとにかく世継ぎを確実に産んでくれる女性を選びました。
その条件は、 出産経験のある未亡人であること。
丈夫で健康的、生命力に溢れてたくましいことを重視し、容姿は特にこだわりがなく、女中顔の女性が多かったとか。
家康は後家好みという人もいますが、経産婦であれば不妊の可能性は低いと分析し、確実に子どもを残せる女性を選びました。
もし子どもができれば、男子ならば、信頼できる跡取りや仲間にできますし、女子ならば有力大名と結婚させ味方につけることもできます。
経験豊かな側室に囲まれた家康は、思惑通り11男5女という子沢山に恵まれ、一族を繁栄させることに成功しました。
◆家康の妻たち
正室◆築山殿(瀬名)
今川義元の姪である築山殿は、政略結婚だったためか夫婦仲は微妙とされています。
築山殿は、家康が主家だった義元が桶狭間の戦いで敗れると、信長と同盟を結んことに不満があったのかもしれません。
また信長にとっても、武田家との内通疑惑があった築山殿は邪魔な存在でした。
そのため、信長は家康に、築山殿と息子・信康を処刑するように命じます。
信長からの命令に逆らえない立場の家康は、断腸の思いで家臣に命じて妻と待望の長男を殺害させました。
家康、信長、秀吉の親戚関係の家系図は⇒こちら
側室◆於愛の方(おあいのかた)
西郷義勝の未亡人で、徳川秀忠・忠吉 の生母である於愛の方は、教養があり、美人で性格も良い、文句なしの女性でした。
重度の近視であったため、盲目の人々の援助をするなど心優しい女性で、家臣や、侍女にも慕われていた女性です。
戦続きだった家康を支え続けた於愛の方は、家康から特に愛された側室の一人です。
側室◆阿茶局(あちゃのつぼね)
未亡人となって25歳で家康の側室となった阿茶の局。
家康にとっては築山殿と信康を亡くした直後に出会ったため、彼女には特別な思い入れがありました。
武家の生まれで馬術、武術に長け、戦場にも同行するアグレッシブな阿茶局は、家康にとっては共に闘うパートナーのような関係でした。
大阪の陣では豊臣方との交渉役に抜擢され、外交という重要な任務も任されたほどです。
残念ながら子どもには恵まれませんでしたが、のちに家康が、駿府城(静岡県)へ隠居するとき、側室の中で唯一連れて行ったのが「阿茶局」。
このことからも 家康にとって、大切な女性だったことがうかがえます。
側室◆お万の方
多くの未亡人を側室にしていた家康ですが、50歳を過ぎたあたりから若い女性を迎えるようになっていきました。
そのなかでも、お万の方は16歳で側室となり、御三家の始祖となる頼宣、頼房の母となりました。
また家康にとって、後北条氏と縁のあったお万の方を嫁にすることは、関東支配を円滑にするためにも有利だったようです。
側室◆お梶の方
なんと13歳で家康に嫁いだ「お梶の方」も、家康から寵愛を受けた側室です。
戦場には男装をして家康に同行し、家康の身の回りを世話する秘書のような役割を担いました。
一方、家康の生涯最後の子である市姫を産みますが、その子は4歳で亡くなってしまいます。
悲しみに暮れるお梶でしたが、家康は彼女に頼房の養母として教育を任せ、子が産めなくても信頼し続けました。
『どうする家康』相関図キャストは⇒こちら
徳川家康の生涯や性格の詳しい解説は⇒こちら
最後に
家康は、女性を家柄や容姿だけで選ぶのではなく、夫に先立たれた女性を側室に迎えるという、合理的で面倒見の良い性格だったことが伺えました。
側室を囲うのではなく、優秀であれば戦場にも連れていき働かせる。
結婚しても女性が活躍する場を与えてくれた家康は、この時代には珍しい考えの持ち主だったのかもしれませんね。
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