徳川家康【妻と子の家系図】合理的な側室選びとは?

大河ドラマ

大河ドラマ『どうする家康』の放送で注目されている徳川家康は、生涯に11男5女をもうけています。しかし、二代目将軍の秀忠は知っていても、妻や側室についてはあまり知られていないのではないでしょうか。そこで今回は、家康の家系図や合理的な側室選びの基準をご紹介いたします。

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徳川家康の妻と子の家系図

徳川家康の妻と子一覧

戦国の世を終わらせて天下人になった徳川家康ですが、幼少期の家庭環境は良いとは言えませんでした。

両親の愛を知らずに育った家康は、家族に対しても実にシビアで、側室選びに関しても合理的。

正室は、今川義元の姪・築山殿(つきやまどの)と豊臣秀吉の妹・朝日殿(あさひどの)で、どちらも政略結婚です。

一方、側室は約20名ほどいたとされていますが、その選び方には家康のこだわりがありました。

豊臣秀吉は、身分の低い出だったため家柄や容姿を重視したそうですが、家康はとにかく世継ぎを確実に産んでくれる女性を選びました。

その条件は、 出産経験のある未亡人であること。

丈夫で健康的、生命力に溢れてたくましいことを重視し、容姿は特にこだわりがなく、女中顔の女性が多かったとか。

家康は後家好みという人もいますが、経産婦であれば不妊の可能性は低いと分析し、確実に子どもを残せる女性を選びました。

もし子どもができれば、男子ならば、信頼できる跡取りや仲間にできますし、女子ならば有力大名と結婚させ味方につけることもできます。

経験豊かな側室に囲まれた家康は、思惑通り11男5女という子沢山に恵まれ、一族を繁栄させることに成功しました。

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家康の妻たち

正室築山殿(瀬名)

今川義元の姪である築山殿は、政略結婚だったためか夫婦仲は微妙とされています。

築山殿は、家康が主家だった義元が桶狭間の戦いで敗れると、信長と同盟を結んことに不満があったのかもしれません。

また信長にとっても、武田家との内通疑惑があった築山殿は邪魔な存在でした。

そのため、信長は家康に、築山殿と息子・信康を処刑するように命じます。

信長からの命令に逆らえない立場の家康は、断腸の思いで家臣に命じて妻と待望の長男を殺害させました。

側室於愛の方(おあいのかた)

西郷義勝の未亡人で、徳川秀忠・忠吉 の生母である於愛の方は、教養があり、美人で性格も良い、文句なしの女性でした。

重度の近視であったため、盲目の人々の援助をするなど心優しい女性で、家臣や、侍女にも慕われていた女性です。

戦続きだった家康を支え続けた於愛の方は、家康から特に愛された側室の一人です。

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側室阿茶局(あちゃのつぼね)

未亡人となって25歳で家康の側室となった阿茶の局。

家康にとっては築山殿と信康を亡くした直後に出会ったため、彼女には特別な思い入れがありました。

武家の生まれで馬術、武術に長け、戦場にも同行するアグレッシブな阿茶局は、家康にとっては共に闘うパートナーのような関係でした。

大阪の陣では豊臣方との交渉役に抜擢され、外交という重要な任務も任されたほどです。

残念ながら子どもには恵まれませんでしたが、のちに家康が、駿府城(静岡県)へ隠居するとき、側室の中で唯一連れて行ったのが「阿茶局」。

このことからも 家康にとって、大切な女性だったことがうかがえます。

側室お万の方

多くの未亡人を側室にしていた家康ですが、50歳を過ぎたあたりから若い女性を迎えるようになっていきました。

そのなかでも、お万の方は16歳で側室となり、御三家の始祖となる頼宣、頼房の母となりました。

また家康にとって、後北条氏と縁のあったお万の方を嫁にすることは、関東支配を円滑にするためにも有利だったようです。

側室お梶の方

なんと13歳で家康に嫁いだ「お梶の方」も、家康から寵愛を受けた側室です。

戦場には男装をして家康に同行し、家康の身の回りを世話する秘書のような役割を担いました。

一方、家康の生涯最後の子である市姫を産みますが、その子は4歳で亡くなってしまいます。

悲しみに暮れるお梶でしたが、家康は彼女に頼房の養母として教育を任せ、子が産めなくても信頼し続けました。

『どうする家康』相関図キャストは⇒こちら

最後に

家康は、女性を家柄や容姿だけで選ぶのではなく、夫に先立たれた女性を側室に迎えるという、合理的で面倒見の良い性格だったことが伺えました。

側室を囲うのではなく、優秀であれば戦場にも連れていき働かせる。

結婚しても女性が活躍する場を与えてくれた家康は、この時代には珍しい考えの持ち主だったのかもしれませんね。

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